本日、2022年6月10日をもちまして、
1961年に深海辰治が呉須・釉薬製造をはじめとする窯業資材の事業を法人化して61周年となりました。
これもひとえにこれまでさまざまな形で支えてきてくださったお客様、お取引様やご関係の皆様のおかげであり、厚く御礼申し上げます。
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安土桃山・江戸時代:深海宗伝・百婆仙
深海家が有田焼を含む窯業に携わった契機は、
豊臣秀吉が文禄の役(1592~1593)・慶長の役(1597~1598)の際に朝鮮出兵した際に来日した事から始まります。
最初は、有田町の隣町である武雄市内田村に深海宗伝・百婆仙を含む深海家は住みます。
尚、深海宗伝と百婆仙は夫婦です。
深海家の名字の由来・武雄市での作陶
深海の名字は、深海家を武雄に連れて来た、武雄領主である後藤氏にて命名されます。
後藤氏に韓国の出身地を聞かれ、深海家は釜山の近くにある金海(キンカイ)と答えました。
しかし、キンカイをシンカイと後藤氏に勘違いされたことで、深海(フカウミ)という名字を賜ります。
ここから、深海家の日本での歴史は始まります。それからしばらくの間深海家は武雄市内田村で作陶します。
現在では文化庁に史跡に指定いただいておりますが、こちらの小峠窯跡で深海家は焼き物を焼いていたようです。
武雄焼の祖ということで、没後400周年である2018年10月29日(宗伝の命日)に飛龍窯そばに顕彰碑を建立いただいております。
毎年、10月29日に宗伝を偲ぶ会を催していただいており、本記事を執筆しており、深海家13代目である私も出席させていただいております。
有田町への拠点の変更
1618年に深海宗伝が死去した事に伴い、その妻であり有田焼の母・有田焼の開祖と呼ばれる百婆仙が56歳の時に一族を率いて武雄市から有田町に移住します。
百婆仙は有田町の稗古場に拠点を構え、一族や百婆仙を慕う沢山の陶工達を率いて有田焼を焼き始めました。
百婆仙は当時としては長命の96歳まで生き、有田焼に貢献しました。
その功績を称え曾孫が稗古場にある報恩寺に石碑を建立し、有田町の観光名所として認定されています。
百婆仙に関しては様々な形で取り上げてあり、
・本:肥前陶磁史考
・論文:有田焼の創始者 : 百婆仙についての基礎的研究
・小説:芥川賞作家である村田喜代子氏の龍秘御天歌・百年佳約
・韓国ドラマ:火の神ジョンイ
他にも、有田焼や有田町に関する本やマンガ等で随所に出させていただいております。
また、韓国では初めて外国に渡って活躍した女性リーダーということで、
百婆仙に関する研究会も立ち上げてあるそうです。
この様に有田焼の黎明期から、有田焼が世界中に輸出され高い人気を誇る時代と共に深海家は過ごしてきました。
時代は下って明治時代の深海家の有田焼との関わりについて書きたいと思います。
明治時代:深海平左衛門・墨之助・竹治
深海平左衛門(1806~1872)とその息子達である墨之助(1845~1886)・竹治(1849~1898)は明治時代に有田焼産業に携わっていた人物です。
深海平左衛門とその息子達の墨之助・竹治の有田焼への貢献は複数あります。
一つ目は呉須の開発です。
日本初合成呉須の開発
江戸時代、中国から長崎経由で天然呉須を輸入していましたが、非常に高価でした。
そこで、明治3(1870)年、深海平左衛門が有田の皿山代官(役所)に依頼してゴットフリード・ワグネル氏を有田に招聘しました。
これは、ワグネル氏が合成呉須の製造方法を知るドイツ人化学者であったためです。
そこで、有田に招聘されたワグネルは深海平左衛門、墨之助、竹治父子に呉須の化学的な製造方法を伝授します。
この事により日本で初めて安価で発色の良い化学的に呉須を開発し、使用され始めました。
その後、深海家は赤・黄・青を発色させる顔料を開発して、この3つの顔料を変化させて、さまざまな色を出すことができるようになりました。
二つ目は香蘭社の創設です。
合本組織香蘭社の設立
合本組織香蘭社は現在、有田を代表する窯元として有名で皇室御用達の株式会社香蘭社様の元となる組織です。
明治時代、日本の製品の海外での知名度向上のために、日本政府は万博への出展を後押ししておりました。
その機運を受けて、明治8年に合本組織香蘭社は深川家・辻家・手塚家・深海家(深海墨之助)の4家が集まって設立されました。
深海墨之助が当時30歳の頃です。
この香蘭社での作品は、明治9(1876)年開催のフィラデルフィア万博で金賞を受賞します。
フィラデルフィア万博からの帰国後、経営方針の違いにより、深海墨之助は香蘭社から離れます。
深海墨之助のその後
さらに、深海墨之助は精磁会社を設立し有田焼の作陶技術を高めます。
ついには、現在私が分かっているだけでエリザベス女王所有の博物館に収蔵されたり、
東京国立博物館に作品が収蔵されております。
国立博物館収蔵作品
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/473255
https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/438381
英・ヴィクトリア&アルバート博物館所蔵作品
https://collections.vam.ac.uk/item/O496051/vase-fukaumi-suminosuke/
ご興味がある方は年木庵喜三でお調べください。
帝室技芸員(人間国宝)内定
弟の竹治に関しても卓越した技術を持っておりました。
明治30(1897)年に帝室技芸員(今でいう重要無形文化財・人間国宝のような地位)の内定をいただきます。
しかし、当時としては、不治の病である肺結核に罹患し死去したことで残念ながら帝室技芸員を受賞することは出来ませんでした。
日本が激動の時代を経ており、有田焼の知名度がさらなる高みへと押し上げられた時代と共に深海家は歩んできました。
さて、今度は昭和時代へと時代を下ります。
ここで有田焼との関わり方を大きく変えます。
昭和時代:深海辰治
深海辰治(1901~1970)は第二次世界大戦後、有田焼を含め物が全く売れない時代を過ごします。
有田焼の衰退に危機感を感じた深海辰治は有田焼の美しさを再定義します。
そこで、色が有田焼の美しさを作るものだと考えたのです。
そして、代々続いていた窯元から転身し、
有田町の赤絵町で呉須の製造企業として深海商店を始めます。
それからというものの八面六臂の活躍をします。
半世紀以上前から、深海商店の呉須を用い窯元様の卓越した技術の下で製造された有田焼の器は
各国の王侯貴族に愛でられ、博物館で展示されるまでになりました。
今回、創立記念日を機に深海家の420年の歴史を書かせていただきました。
深海家は初代から代々有田焼に携わらせていただいておりますが、
これまで以上により高い品質、時流に沿った商品の開発に邁進してまいります。
今後ともなお一層のご指導・ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。
参考:有田民俗資料館